12月8日発売決定!『深夜、生命線をそっと足す』まえがきを公開します
法事などに行くと、ときどき現れる一風変わった親戚のおじさんはいないだろうか? 僕の親戚にはひとりそういうおじさんがいる。とにかくそのおじさんは話がエロおもしろい。エロおもしろすぎて、一緒に話していると、両親が割って入ってきて、「あっち行ってなさい」といわれたほどだ。
おじさんは五十代後半だったが、 結婚離婚を繰り返し、そのときは二十代前半の女性と結婚していた。法事なのに真っ 赤な靴下にヤンキースの松井秀喜Tシャツで来てしまうような人で、名刺にもわけのわからない肩書きがいくつも印字されていた。
おじさんには法事と、親戚の結婚式の二回しか会ったことはないが、その二回ともとんでもないインパクトを残したので(結婚式では、頼まれてもいないのにスピーチをしだし、下ネタオンリーで全 員ドン引き)、忘れることができない。法事の帰り、そのとき進路で悩んでいた僕に「もし日本が無理だと思ったら、一緒にフィリピンでコインランドリー屋をやろう!」とヤニだらけの歯を全開にして、おじさんは笑いながら肩を組んできた。進路で悩んでいる親戚の男に、フィリピンでコインランドリー屋をやろう! と回答する人生相談は、古今東西、おじさんくらいだろう。
でもなぜだろう、そのとき僕はとんでもなく安心したのを覚えている。ホッとした、なんてレベルじゃない。冗談抜きで「ひっそり死にたいな」などと思っていたはずだったのに、法事の帰り道にうっかり明日への活力をもらってしまった。おじさんに「もう少し生きてみようと思います」と頭を下げた。おじさんはニカアと笑って、「フィリピンの女の子は、優しいぞお」とだけいった。そのあと、どの法事にも、誰の結婚式にも葬式にも、おじさんが姿を見せることはなかった。「おじさんは?」と母親に何度か尋ねたが、「どうしてるのかしらねえ」で終わりだった。
二村さんとラジオを始めたのは、もう三年も前になる。ひっそりとこっそりと放送を続けてきた。冗談半分で二村さんとは、「この場所(夜のまたたび)は、オフラインサロンだから」などといい合ってきた。誰も聴かないでお願い、と思いなが ら話すラジオ番組を、これから先やることはないだろう。
このオフラインサロンもそろそろ終わりにしようか、と二村さんと話し合っていたとき、番組の書籍化の企画が持ち上がった。誰も聴かないでお願い、と思っていたのに、一冊にして絶対に残したいと思ったのだから不思議だ。
二村さんは僕にとって、あの親戚のおじさんに限りなく近い存在だ。いつもニカアと笑っていて、いやらしいことを必ずいう。ときどきこっちが落ち込んでいると気づくと、「君はすてきだから大丈夫」なんてキザなこともいやらしいことと同じテンションでいってくれる。
月に一度のこのラジオ番組の収録を、僕は心療内科に通うように臨んでいた。ここ六年ほど、ずっと週刊連載を抱えて、何かの小説を書いて、ラジオ番組もこなしてきた。今まで何も書いてこなかった人間が、突然狂ったように書き始めたのだから、そりゃ心も身体も狂ってしまう。
これを書いている今、僕はストレスで両眉毛がない。円形脱毛症もポコポコできて帽子は欠かせない。心も身体も狂いながら、それでもどーにかこーにかこなしてくることができたのは、二村さんとの一カ月に一度のオフラインサロン、心療内科『夜のまたたび』があったからだと思う。
ラジオブースに入って、ヘッドフォンをするとき、二村さんはだいたい声をかけてくれる。「大丈夫? 今日も疲れてるねえ」とニヤアと真っ白の歯を全開にして楽しそうに僕の不健康な顔を揶揄<やゆ>する。
「今日は、白ネギみたいだなあ」とかいう。「まあ、全部だめになったら、ごはんでも行こうよ」なんていってくれる。
全部だめになっても会ってくれる人がいたら、もう少し人はがんばれる、ということも二村さんから学んだ。
深夜に配信されるこのラジオ番組を、深夜に必ず聴いていた。僕の人生の中でも、きっと特別忙しくて狂っていた季節に、二村さんとのラジオ番組があって本当によかった。二村さんと話している時間、僕はとんでもなく安心していた。
「ひっそり死にたいな」 という気持ちがまったくなくなったわけではない。今でもすきま風が吹くみたいに、スッとそんな気持ちになったりする。そんなときは『夜のまたたび』のアーカイブをだだ流しにしてみる。そうすると必ず、もう少し生きてみようかと思える。
今日も僕は生きている。まだあきらめていない。くじけそうではある。ラジオの中で笑っている声がする。深夜、生命線をそっと足す。<燃え殻・まえがきより>