「私なんかが」は呪文のように自分からやる気も可能性も奪っていく。ジェーン・スー『おつかれ、今日の私。』試し読みを公開します
友達の桜林直子さん(以下、サクちゃん)が『諦めの呪いを、許可でとく話』というnoteを書いて、それを読んだ私は「なるほどなあ」と深く頷いた。
サクちゃんは長年、目標を立てない生き方をしてきたらしい。常により良い選択をしてきたけれど、そもそもの選択肢は「知っている中だけ」で選んできた。目の前の問題を都度クリアして、良いと思ったほうを選んで生きてきて、それだけでもすごいいわと私は思うのだけれど、サクちゃん曰く「たどりついたのは、別に自分が望んで来たかった場所ではなかった」のだそうだ。
こうなった理由を、サクちゃんは「自分がしあわせになることを許していなかったから」と書いていた。選ばなければいけない場面に直面したとき、ほかの選択肢を貪欲に求めなかったのは、「自分にそんなものは用意されていない」と信じていたからだと。これはマズいと、それから生き方を変え、素直に「すきなものはすき」「ほしいものはほしい」と認めていったら、最後に残ったのは「しあわせになりたいか?」という問いだったんだそうだ。
私を含め、たいていの人が自分を低く見積もることに慣れきっている。「そんなものは分不相応だから」と尻込みしたり、なかったことにしたり、欲望に蓋をして生きている。
怒濤の三十代を経たあと、歩いてきた道を振り返って私が思うのは「私なんかが」と思って良い結果につながったことなど一度もなかったってことだ。人生にほとんど 悔いはないものの、もう少し早く自分を信じてあげればよかったなとは、ちょっとだけ思う。
「私なんかが」のマジックワードは、処世術としては有効かもしれない。けれど、鏡を見ながら言うのはオススメしない。「私なんかが」はまるで呪文のように、自分からやる気も可能性も奪っていくから。己の傲慢さを制御したいのなら、シンプルに「おごるなかれ」のひとことでいい。鏡の中の自分を指さして言ってやれ。
サクちゃんの文章を何度も読み、時間を空けてまた読んで、私にも思い当たるフシがあると気づいた。コンプレックスや自信のなさってものが、ねじれた形で発情に近い欲望とくっついている点。これをひっぱがすのが難しい。
うまくいかなかったとき、「やっぱりダメだったわ」と肩を落としながら、どこかで失敗に安堵してしまうことってあるでしょう。自分はそれには値しない人間だと外から承認してもらえたような、小さな小さな興奮が生まれる瞬間。たとえば自尊感情がガリガリ削られるような不倫ばかりしているとか、傍から見るとまったく合わない相手ばかりを探す婚活をしているとか、そういうのもこれに当たる。「選ばれない」ことを選んでいるのだ。これが、発情に近いねじれた欲望。
毎度毎度同じところに突っ込んでいって、しあわせにはなれないことを他者に証明してもらい、ボロボロになりながら「やっぱりね」と変に納得した顔で帰ってくる。散々な目に遭ったはずなのに、そういう相手や環境がそばに近寄ってくると、またしても磁石のように引き寄せられていくので、見てるほうとしてはたまらんなあとなる。それは違うんじゃないかと思っちゃうけれど、まあその人の人生だし、とやかく言うのもな。
誰もが常に正しく生きられるわけではないし、心の欠損を埋めるようなかたちの、「癖(へき)」に近い欲望が存在することは、ある程度仕方のないことだ。でも、嗜癖(しへき)の道を極めたとしても、欠損は永遠に埋まらないことは覚えておかなきゃ。「私なんかが」を貫き通し、ねじれた欲望に忠実であり続けると、結局は自分でもびっくりするくらい、 想定よりずっと低い自分に仕上がってしまうのだ。好きなものを好きと言い、やりたいことをやったつもりの結果がそれでは、目も当てられない。と同時に、発情磁力はすさまじいパワーを持つのよね。私にとっても永遠の課題だわ。
ではどうしたらいいのかと考えてみるに、やっぱりサクちゃんの言う「しあわせになりたいか?」を己に問い続けていくしかないような気がする。無条件に引き寄せられるものが自分にしあわせを連れてきたことがあるかと、忘れず己に問うていくしか ない。答えが「しあわせにはなりたいが、私を引き寄せるものがしあわせを運んできたことはない」だったとしたら、そこが分岐点になる。どっちを選ぶかはその人次第だ。自分のテリトリーの奥深くに、再び「それ」を招くかどうかは。
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