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カジの穴を通して、イナガキは天国を見た。『家事か地獄か』(稲垣えみ子著)レビュー by G.D.ポロンスキー

その昔、ブラジル移民が「ハポネス・ガランチード(日本人は保証付き)」と呼ばれていたとか。ブラジル人はいい加減だが、日本人はクソ真面目。褒め言葉じゃない、勤勉さが揶揄されていたのだ。小作農、家督制度、政府の意向、奴隷制度の名残、人種差別などの交差する歴史を負った移民の苦労が偲ばれるが、アメリカへ、ブラジルへ、満洲へ、大挙して海を渡ってから1世紀以上がたった今、日本人の勤労観を問い直すときが来ていると思う。日本でも「できれば働きたくない」若者が増えてはいても、不労がポジティブに語られることはない。不労所得が羨まれることはあっても、不労無所得は8050問題の核心だ。

ところが、当イナガキ本は、「働かざる者食うべからず」の教えが染みついている日本人に一撃を加える。仕事してる場合じゃない、家事をやろう、という晴れやかな一撃を。「保証付き」ではなく「札付き」日本人を誇称して憚らない女子、「無敵の人」以上に危険な「無敵の家事」のエヴァンジェリストが稲垣えみ子なのだ。どういうことか。

働くこと、仕事することが褒められるのは、カネを稼いでくるからである。他方、カネを稼がない家事はイヤでつまらないもの、蛇蝎のごとく嫌われる。数々の家電、便利グッズ、レトルト食品、コンビニが異様に進化したのは、それらが家事代行サービスだからなのだ。

さらに、家事はGDPに反映されず、税収にもならないから国家からも価値を与えられることがない。それではさすがに後ろめたいから、せいぜい「内助の功」の称号が贈られたのだ。

ほんとうは夫(妻)が50万円稼いできたら、夫(妻)が毎日働けるように家事をする妻(夫)に25万円支払わなければ辻褄が合わない。外での労働と、家での労働、同じ労働ならもらわにゃ損々、家事にも対価を払おうじゃないか。とはいえ、政府よ、残念ながら、GDPはびた一文、変わらないけれどね。

過剰に褒められ、価値を与えられるのは、勤勉、能力競争に勝つこと、技術革新を起こすこと、つまるところカネを稼ぐことである。世の中も政府も一致して、カネを稼ぐ努力をせよと尻を叩く。ところがイナガキ本は、家事=天国、仕事=地獄と断じるのだ。それがこの本の書名『家事か地獄か』の意味するところだ。

「努力して手に入れたわけじゃなくて、全ては努力を手放したことで手に入ったのだ」とイナガキはいう。地獄(仕事)の努力をやめたら、天国(家事)だった。老後資金2000万円は真っ赤なウソ、「家事さえあれば、人生なんとかなる」という境地に至ったのである。政府よ、富裕層よ、これは恐ろしい格言ですよ。GDPがしぼんでいくのだから。

1ページに1つ金言警句が仕込まれているイナガキ本だが、バックトラックに流れているのは「家事ができるとは、一言でいえば『自分のことは自分でできる』ということ」。下手すりゃ自己啓発本にありそうな金言だが、そしてそのような傾きがなくはないのだが、改めて自己啓発とはなんだろうか(*1)。親ガチャにもめげずサバイブするためのハウツー、競争社会で生き残るためのサバイバル教、すなわち自立のススメである。

「自立」は近代的な現象であり、われわれは200年、「自立」を目指しながら、いまだに「自立」を扱いかねている。個人の自立なくして「自由」はないと、封建制(家父長制)→核家族→個人へと、歴史の地殻変動を自ら起こしながら、「自立せよ」という強迫観念に急き立てられてきたのだ。

早く独立しろ、妻(夫)に甘えるな、会社にしがみつくな、市場で勝て、国に頼るな。失敗は「自己責任」。まったく「自立バイアス」の呪縛にかかっているかのようだ。資本主義、国家は、自立を強いる「力」が作動するソフトウェアのように機能している。この自立を迫る「力」は、暴力のように目には見えないがゆえに、より手が込んでいて厄介な力だ(*2)。

では、「私はただ、何かにとりつかれていたのだ。そして、その呪いは自分の力でちゃんと解くことができたのである」というイナガキは、自立の闇をどのように抜けたのか。

あなたたちの「自立」って、「依存」のことではありませんか? 家事をしなくなった個人は、自分のことを自分でしてない、というのがイナガキの分析である。家事をしないですんでいるのは、誰かに、何かに「依存」しているからじゃないですか?

「自立」と「依存」の関係について、近代のとば口に立つ哲学者ヘーゲル(1770−1831)はこう考えた。超難解なヘーゲルを、斎藤幸平にクリアカットしてもらおう。

 ヘーゲルが「主奴の弁証法」で指摘したことは、現代社会にも当てはまります。
 一般に「自立して自由に生きている」と思われている人——例えば企業の男性経営者は、実のところ社員や秘書の献身的な労働に依存し、日常生活においてもご飯や洗濯、育児、介護などで家族やケアサービスに依存しています。ヘーゲル的に考えると、男性経営者こそがむしろ非自立的な存在であるといえる。
 ところが今の社会は、こうした男性的な自立モデルを称揚していますし、社会制度もそれに合わせて設計されています。ヘーゲルの表現を借りれば、男性的自立を「本質的」なものと位置づけ、ケアワークや奉仕活動は「非本質的」なものとして評価が低められている。それは、賃金や社会的ステータスにも歴然と現れています。

『100分de名著 ヘーゲル 精神現象学』(NHK出版 2023)より引用

稼ぐことは非自立的で、じつはおカネに依存しているだけだった。家事やケアワークや奉仕活動こそが本質的には社会的な自立なのだ。ブルシット・ジョブは宿り木で、エッセンシャル・ワークこそが大樹だったのだ(*3)。

もちろん現代人は、おカネなしでは何ひとつできない。稼がざるを得ない。そして、「働かざる者」は依存者になるという圧倒的な「真理」の下、ごくつぶし、すねかじり、ニート、パラサイトなどなど数々のネーミングに上書きされてきたわけである。「働かざる者食うべからず」の古い教えは、いまでも日本人のエートスとなって更新され続けているのだ。

「依存」と「自立」の関係を、弁証法的に反転したのがヘーゲル/斎藤幸平であり、果敢にも実践的にひっくり返したのがイナガキであった。

総理は、官僚に、料亭に、運転手に、奥方に、国民(税金)に、何から何まで依存しているので奴隷であり、国民は何から何まで自分でするので主人である。主人と奴隷が反転することが「主奴の弁証法」だが、実際は、総理も国民も誰かに何かにすべてを依存していますよ、というのがイナガキの非弁証法である。

この本の副題「最期まですっくと生き抜く唯一の選択」が表しているように、一億総依存が進むと人生100年はどうなるかが、7年前、大企業朝日新聞を退社したイナガキの切実なテーマだったことは想像に難くない。

もっと先へ、もっと上へ、もっと豊かに、もっと便利にと、どんどん変化していく社会は、老人をどんどん置いてけぼりにしていく。「集団の中で自分の役割をしっかりと果たす」どころか、老人にできないことを増やし、孤立させ、役に立たない人間、迷惑をかける人間かのようにしてしまっているのである。

『家事か地獄か』より引用

毎ページに逆張りの金言警句が出現するイナガキ本にしては、順張りの主張、悪くいえば驚きのない銅言だが、「老人」を「若者」に代えるとたちまちハードボイルドな世の中が出現する。

実際、役割が見つからず、役に立たず、社会から置いてけぼりになり、迷惑をかけていると後ろ指さされる「若者」が、ときとして「無敵の人」となって牙を剝くのである。政府・文科大臣は高校での金融教育を義務化したが、さらに深刻な「社会からの置いてけぼり」を増やすような気がしてならない。

金融は読んで字の如く金を融通すること。資本主義の隅々に張り巡らされている血脈である。政府の「貯蓄から投資へ」というスローガンは、もっとカネを融通し合え、ということなのだ。大量に眠っているカネを市場に引きずり出し、カネによってカネを殖やすことを目指す。働いて得たカネを、働かずに殖やすのだ。カネでカネを殖やすのだから、もはや具体的に使うモノやサービスとは細い糸でしかつながっていない。

資本主義の核にはおカネがある。驚くことにモノやサービスは二次的なものにすぎないのだ。カネが流れなくなると、資本主義は死んでしまう。カネが円滑に滞ることなくがんがん循環すれば、モノやサービスは後からついてくる。つまりGDPは増える。金融教育は資本主義のアクセルを踏め、という教えなのだ。

金融教育は、全国民を金融に巻き込み、順位づけ、必ず金融リテラシー格差を生むだろう。みんなが正しい資本主義を理解し、立派な競争をし、投資を通じて、地球にやさしいモノとサービスを豊かにすることはない。カネでカネを殖やすことが目的化するからだ。1億儲ける者と1億失う者が出現する。「無敵の人」の土壌が出来上がる。

「家庭科教育」こそ喫緊の課題というイナガキに促され、「金融教育」がサジェスト(検索候補)され、横道に迷い込んでしまった。大きくスピンアウトしたが、イナガキが、カネを稼ぐ仕事から、カネにならない家事に、カジを切ったことを思い起こしてほしい。

「無敵の人」を生まないために、イナガキが総理大臣に提案するのは、「最大の政治課題として、まず家庭科教育の充実・普及を図るネ」である。死をも恐れない「無敵の人」を、生を愛おしむ「無敵の家事」に誘うことこそ教育ってもんでしょう。稼ぐことは依存で、家事こそが自立なのだから、総理、男女の自立を顕彰するなら、金融より家事ですよ。

以上、イナガキ本は人生100年時代のサバイバルノウハウを伝授するハウツー本としては役不足、いざ実践すると社会が横転、仰天する思想本でもあるという側面から援護したために、ぎすぎすしたレヴューになったが、この紹介の仕方は間違っている。実際はやることなすことがおかしすぎて開いたクチが塞がらない読み物であり、「家事か地獄かお笑いか」の域に達しているのだ。

バートルビーが「そうしない方が好ましいのです(I would prefer not to)」という後ろ向きで不気味な言葉を何十回も繰り返しているうちに、読者の腹の底からマグマのようにおかしさがこみあげてくるように、イナガキの生活が、「なんにも無い」から「無いものは無い」になっていくにしたがい、つられ笑いが止まらなくなるのである。

『バートルビー』はアメリカの資本主義がテイクオフする19世紀半ば、ウォール街の法律事務所が舞台の小説。雇い主が仕事を振ると、それまで勤勉だったバートルビーが突然、「穏やかな、きっぱりした口調で『そうしない方が好ましいのです』と答えたのである」(*4)。前述したようにその後、この言葉は何十回も繰り返されることになる。そして事務所の人間までが「〜の方が好ましい(prefer)」という言葉をつい使ってしまうほどになり、ついには「私だったら、こんな奴、好ましてやりますよ」とまで言いだす始末だ。

「しない方が好ましい」の畳みかけが、最後には雇い主を感服させてしまうように、「何もかも捨ててやめていく」イナガキにわれわれも感服させられてしまう。その時、爽快でグロテスクな笑いが突き上げてくる。例えばこんな具合だ。アトランダムに抜き出してみる(適宜、省略あり)。

炊飯器をやめた。電子レンジをやめた。掃除機をやめた。洗濯機をやめた。冷蔵庫をやめた。いざやってみたら、全くどうってことなかったのだ。それどころか、どんどん家事がラクになってきたのである。便利なものはまさにその便利さゆえに、シンプルな物事をいつの間にか「オオゴト」にしてしまう特性があるのだ。

電気代は月200円ちょっと、ガスはそもそも契約しておらずカセットコンロと銭湯で生きている、水道も月に1㎥しか使わない、つまりはそもそもライフラインに頼っていないのである。となれば、災害に強いどころか「常時災害」生活である。

30年近く連れ添ったトイレブラシをエイヤーと捨てたわけです。今も、初めてその光景を見た時の、なんとも言えぬ爽やかな気持ちを忘れることはできない。だってその瞬間、人生で初めてトイレが「汚い」場所じゃなくなったのだ。毎朝、便器にクエン酸を小さじ1ほどふりかけて、小さな布でもって、排水溝の奥の方まで手を突っ込んでゴシゴシ掃除する。それが私の新しい習慣だ。

私のごとき世間に流されるまま物欲にまみれて生きてきたへなちょこ現代人であっても、その気にさえなれば、ここまでモノを減らせるのだということ。案外やればできるな……というのが嘘偽らざる感想であった。というか驚きであった。何しろここまで極端なことをしても何の支障もなかったのである。いや支障がないどころか圧倒的にラクで気持ち良いのだ。

みなさん家事というと、炊事洗濯掃除って思ってるかもしれませんがね、現代人が最も時間とエネルギーを費やしている家事は間違いなく「買い物」だ。次々と新しい服やら便利グッズやらを、膨大な時間とお金をかけて手に入れ続ける人生。それは全て、ここではないどこか、今じゃない未来に楽園があると信じ続けているからこその行動だ。

『家事か地獄か』より引用

家事を極めるとあれよあれよと家事が少なくラクになっていく逆説的なプロセスをイナガキとともにたどると、ショッピングというダンジョンに迷い込むことになった。「買い物」こそ家事のラスボスだった。ついに資本主義経済の魔宮に降り立ってしまったのだ。

「貨幣をもつことは、それをいま使うか後に使うかという一種の投機活動をすることでもある」(*5)。われわれは誰もが日々「今じゃない未来に楽園があると信じ続けて」現在をすり減らしているわけなのである。今日は我慢して、明日買おう。今日は使わずに投資して、来年がっぽり儲けよう。そうしておカネと共依存し、手の中におカネを握って年をとっていく。

ちなみにおカネもわれわれに依存している。おカネを使ってね、なんなら投資してね、そのためには儲けてね、資本主義はそうささやいているのである。政府による金融教育は、ダンジョンをクリアするアイテムを与えてくれるだろう。未来の楽園に向けて、備えは万全である。自分自身が生きている未来かどうかはわからないけれど。

見え透いた皮肉はやめて、イナガキに導かれたテーゼに戻る。「働きたくない」は、けっして後ろめたい気持ちではない。そのことは口が酸っぱくなっても言い続けなければならない。時短なければ家事もない。動物は人間が働かせることはあっても、働いてない。彼らはおカネを持ってない。動物は裸でありながら裸であることを知らない。だから動物は裸じゃないとジャック・デリダはいっている(*6)。それに倣えば、働きすぎ着飾りすぎている現代人は裸の王様なのだ。

イナガキはラク家事をちゃっちゃとこなしながら動物の目で現代人を観察している。檻の中にいるのはわれわれなのだ。

書店の店頭で、この本の口絵写真だけでも見てほしい。家事に彩られた「裸じゃない」暮らしが写っている。裸の王様の〇〇邸ではなく、恥ずかしくない暮らしだ。静かな狂気さえ感じるのは、読者が檻の中から覗いているからだろう。

家事こそはすべて。シンプルにして偉大な認識を得て、イナガキはさらに胡蝶の夢を見る。人生の夢は家事から解放されることだったが、実際は家事を奪われる(悪)夢だったのではないか。「我らは体だけじゃなくて、もうこれからは頭も使わなくていいんですどーぞどーぞラクにしてくださいねっていうエンドレスな呼びかけの中を生きてるのだ」

家事も仕事も政治も経済も、中立で有能なワレワレにお任せください。「ハポネス・ガランチード(日本人は保証付き)」を返上した暁には、夢のような「AI・ガランチード(AIは保証付き)」のディストピアが見えてきたではないか。

参照文献
*1 『自分探しが止まらない』速水健朗(SB新書2008)
*2 『力と交換様式』柄谷行人(岩波書店2022)
*3 『ブルシット・ジョブ——クソどうでもいい仕事の理論』デヴィッド・グレーバー 酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳(岩波書店2020)
*4 「書写人バートルビー ウォール街の物語」ハーマン・メルヴィル 柴田元幸訳『アメリカン・マスターピース 古典篇』(スイッチ・パブリッシング 2013)所収。ほかにも多数の訳書あり/原書初出1853
*5  『資本主義から市民主義へ』岩井克人・三浦雅士(新書館 2006)
*6 『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』ジャック・デリダ 鵜飼哲訳(筑摩書房 2014)

【評者プロフィール】
ギンジ・ドルトン・ポロンスキー

元労働者(現在も少し)。アルバイト、期間工、会社員、弟子入り、派遣職場、業務委託など総ざらいすると、点々と渡り歩いた仕事は100オーバー。恥ずかしくない程度に家事もしている。



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