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文庫X『殺人犯はそこにいる』の著者・清水潔の最新刊『鉄路の果てに』冒頭(約8000字)を公開します

「だまされた」父が遺したメモを手掛かりに、気鋭のジャーナリスト清水潔が戦争を辿る『鉄路の果てに』。内容紹介についてはこちらを、写真で巡る韓国・中国・ロシアの旅はこちらをご覧ください。

鉄路目次

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序章 赤い導線

3両編成の短い電車はステンレス製の車体を揺らせて発車していった。

足下にレールの踏面だけが輝きを見せている。かつて、私が通学や通勤に使っていた路線だ。当時は、目黒と蒲田を結ぶ目蒲線と呼ばれたが、今は途中で分断され名称も変わり都会の中のローカル線のようになった。

改札を抜けて駅前に出る。洋菓子店・ペコちゃんが立っていた不二家は消え、子供の頃から通った書店はとうの昔にシャッターを降ろした。歯抜けとなった商店街を進み、細い路地を折れるとグレーの外壁が見えてくる。合成パネルが張られた木造の二階建て。

私が生まれ育った家である。

鍵を廻して、玄関先で「ただいま」とつぶやくが、応じる者はない。廊下を歩けば薄暗い空間にただ床板が軋むだけだ。昭和30年頃に建てられて、父が自らで手を入れて大事に使ってきた家。

父は2013年の秋に亡くなった。

その後しばらくは母が一人で暮らしていたが、ある夜転倒して骨折。車椅子で生活できる施設に移った。その日以来、私の生家は都市部に増殖する空き家の仲間入りをした。

当時と変わらぬ場所に食卓が置いてある。両親と兄の4人で囲んでテレビを見ては賑やかに過ごした場所だ。今は天板も椅子も冷え込み、たまにしか訪れない私によそよそしい。

当たり前と思っていた日常とは、とてももろい。

庭に面した南向きの場所には居間がある。二階を増築する前、まだ家が小さかった頃は全員で川の字で寝ていた。毎年新年を迎えたのもその部屋だ。写真好きだった父は、おせちを囲んで家族写真を撮ることを欠かさなかった。

ジッ──、カシャ。

三脚に載せたカメラ。そのセルフタイマーのゼンマイの音が今も聞こえてくるようだ。

見慣れたはずの光景がなぜこんなに感傷的に映るのか。それは60年の役目を終えたこの家がまもなく解体されるからだ。引っ越しはせずに家財ごと一軒の家を畳む。それはかなりの時間と手間を要するだろう。

隣室にはかつて、写真現像のための暗室があった。父が部屋を改造して現像タンクや引き伸ばし機を揃えた。おかげで私は小学生の時から写真を撮影し、現像、プリントすることができた。写真を撮ることに技術が求められる時代だった。まさか手帳のように薄い電話兼カメラを誰もが持ち歩き、撮影して、その場から世界中へ送る時代が来ようとは、夢にも思っていない少年だった。

シャッタースピードと絞りを決める。カメラのファインダーを覗き、レンズのヘリコイドを廻してピントを合わせる。ブレないように指先でそっとシャッターボタンだけを押す。撮影結果は現像するまでわからない。暗室にこもり、赤色灯の下で現像液が満たされたバットに印画紙を差し入れる。傷を付けないように竹のピンセットで揺すれば、やがてゆらゆらと映像が浮かび上がってくる。友人や動物の姿、街のスナップ、蒸気機関車……、そんな作業に夢中になった。思えばあの頃父が教えてくれたことが、その後の私を形づくっていった。

増築した二階へとつづく廻り階段は急傾斜だ。風呂場の頭上を抜けていくのだが、二階に自室を持っていた父は倒れる少し前まで自力で昇り降りしていた。

日当たりがいいその部屋に入ると懐かしい匂いがした。父の本棚にはアルバムがずらりと並んでいる。これらの多くも処分せねばならない。思わず手に取って開いてみれば、元旦の記念写真が目に入った。カラーからモノクロームへと年代を遡っていける。兄や私の幼少期のもの、父と母が知り合った頃の写真も。

だが──、父の若い頃の写真は少ない。1948年(昭和23)以前の物はなく、戦後に作り直したらしい新しいアルバムの角に、僅かに2枚貼ってあるだけだ。学生帽を被った小学生の姿だった。

無口な父は自分の昔話はほとんどしなかった。大正生まれだから両親はとっくに他界し、兄弟は兄がひとりだけだ。私から見れば叔父にあたるその人もすでに鬼籍に入った。つまり父の過去を詳しく知る者はもういなかった。

病院のベッドの上で枯れ木のように痩せて逝った父の姿が甦える。

激動の昭和を生き抜いたはずの父は、どんな人生を送ってきたのだろうか。

秋の斜光線がカーテンの隙間から延びて書棚の奥まで届いていた。細い光の先端が何冊もの本の中から茶色の背表紙の本を捉える。抜き取ってみると布張りの表紙に金色の文字で『シベリアの悪夢』とあった。表紙をめくると、そこに数枚のメモ用紙が貼り付けてあるではないか。10センチほどの紙片にびっしりと並んだ端正な文字は、父の筆跡だ。

私の軍隊生活
昭和17年5月千葉津田沼鉄道第二聯隊入
昭和17年11月旧朝鮮経由、満州牡丹江入
20年8月、ソ連軍侵攻

紙の隅には小さくこう記されていた。

だまされた

本の表紙裏には地図が印刷されている。日本列島からユーラシア大陸に向けて、赤いサインペンで導線が足されていた。それは父の昭和17年から23年までの足跡だった。

いったい、いつ、これを書いたのだろう。
病室に横たわる今際の父に、戦争体験について質問を並べたことがあった。

「思い出したくないんだ」

少し苛立ったように言うと、腕を組んで天井の一点をじっと見つめた父。しかし、しばらくの沈黙の後でもう一度口を開いた。

日米開戦の翌年である1942年(昭和17)、父は陸軍に招集され鉄道聯隊という部隊に配属されたという。千葉県の聯隊施設で訓練を受けてから中国へ。すでに太平洋戦争が始まっていたわけだが、父が送り込まれたのは日中戦争だった。架橋に関わったりしながらしばらくハルビンに滞在。敗戦時にソ連の捕虜となってシベリアに抑留された。何もかもが凍る激しい寒さの中で、腐ったような味がする黒パンで命をつないだという。

「直径1メートルもある赤松を切り倒す仕事をやらされたんだ。二人一組でのこぎりで。木も凍る寒さの中だよ」

48年(昭和23)になってようやく舞鶴へ復員した。

ぽつりぽつりと思い出すように話してくれたのだが、記憶がおぼつかないところもあり、場所もはっきりとはしなかった。それでも私は少しだけ父の軍隊生活の様子を聞けたことでよしとした。それから1ヶ月後、秋風が吹き始めた頃に父は逝った。93歳は大往生といっていいのだろう。

だが、父が倒れる前からこの本は本棚にあったはずだ。生前にメモの存在に気がついていれば、もっと詳しく話を聞くことができたかもしれなかった。

記者という仕事柄、多くの人の話を聞いてきた。事件や事故の被害者、遺族、容疑者。誰もが口が重かった。己の不幸や悲しみ、失敗を自ら語りたがる人は少ない。けれど何かのきっかけで一気に言葉が溢れ出すことがあった。誰かに、何かを話したい。聞いてもらいたい。そんな思いは多くの人の心底に眠っている。父のメモもそうだったのか。いつか誰かが発見することを想って書き遺したのだろうか……。

戦争に関わる取材は何度も経験してきた。
といっても、マスコミの多くがそうであるように、戦後50年、60年といった節目に過去を振り返るような企画物だ。沖縄戦、空襲、原爆……。その大半が被害者としての日本人の目線のものだった。不思議といえば不思議なのだが、日本が戦争へと突き進んだ道筋について深く考えたことはなかった。

なぜ、父はシベリアに送られ、戦後も帰ってこられなかったのか……。

知ろうとしないことは罪。

記者の私はこれまでそう信じて取材をしてきたのだけれど、肝心の肉親からはろくに話すらも聞いておらず、生き様も知らないという始末だった。

だまされた

父はいったい何を言いたかったのだろうか。
散逸寸前に見つけた数枚の走り書きと地図は何かの道標なのか。

東海道線に重なって動き出した赤い線は、生命を帯びたかのように紙の上を進んでいた。下関から対馬海峡を渡ると、朝鮮半島の釜山から再び鉄道線上を進みソウルを経て大陸へ。中国のハルビンを抜け、その後はシベリア鉄道で遠くロシアのバイカル湖畔まで延びている。

朝鮮、満州、シベリア──。

西へ西へと鉄路をなぞっていく赤い導線。
父が遺したこの線を、私は辿ってみたくなった。
それが果たして「取材」なのか、何なのか。それはわからない。
それでも私はその旅に出ようと思った。
鉄路の果てに、いったい何が待っているのか。

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1章 38度線の白昼夢

皿の上でまだ動いているテナガダコの足。
塩とごま油で味つけがされていて、タコには申し訳ないのだが思わず酒が進んでしまう。ハングルが飛び交う市場。その片隅の屋台に陣取って我々は焼酎を呷あおっていた。

赤い線を辿る旅。

2019年1月。まずは、ここ韓国はソウルまでやってきた。
父の死からすでに5年と少しが経過していた……。

「こんな旅をしても、結局何もわかるはずないんだよな。いかんせん古い話すぎる……」などと、ブツブツこぼしている私のグラスに、「まあまあそれで、いいじゃないですか、これは最高の旅になりますよ」と、焼酎を注いでくれるのは友人の青木俊だ。

いや、今や何冊かの著書を世に送り出している小説家の先生である。かれこれ10年以上の付き合いとなった。

「いやー、韓国っていいですね。飯もうまいし、特にこのソジュ。私は気に入りましたよ」

緑色に透けた瓶を傾けて青木センセイはご機嫌だ。丸顔の鼻に載せたメガネをひょいと指で押し上げ、周りにぐるりと目を向けた。「韓国は二度目ですけどね。いやー、もうここは最高です」と、賑わう広蔵市場の雰囲気をいたく気に入ったようだった。

韓国に来る前は「ソウルは東京と似ていてつまらん」などと言っていたのだが、酒と飯がうまいとなれば180度変わるのは毎度のことだ。

万国旗が下がるアーケードの下に、店舗が軒を連ねる。通路には湯気を上げるおでん、チヂミや腸詰め、ビビンバの具材をボールに盛り上げた屋台がぎっしりと並んでいる。

センセイと私が腰を落ち着けているのは、刺身を出す小さな店だった。

氷の上に新鮮な魚や貝が並び、水槽のガラスにはテナガダコが張り付いている。所詮、屋外だから冷え込んでいるのだが、座った長椅子の座布団は電気で暖められていた。店主のハルモニ(おばあちゃん)は、50センチ四方の穴に身を収め、客に囲まれている。彼女はエゴマの葉にコチュジャンを塗って白身の刺身をぐるぐると包むと、それを青木センセイの口に突っ込んだ。他人の口にまで食べ物を運んでくれるのは韓国では最高のサービスだ。どうやら青木センセイはハルモニに気に入られたらしい。

「マシッソヨ(おいしい)」

覚えたての韓国語と突き出した親指で、青木センセイは喜びを伝えている。


赤い線を辿る旅というものの、残念ながら全てを忠実に追えるわけではない。なにしろ道程には、韓国と北朝鮮の間に横たわる38度線がある。

父が地図に残した赤い導線。

鉄道聯隊が置かれていた千葉県から東海道線、山陽線を経て、下関からは航路で朝鮮半島の釜山に渡っていた。当時、大陸への玄関口の一つだった釜山からは鉄道で半島をソウル(当時の京城)まで北上する。

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私自身、過去に同じルートでソウルを訪れたことがあったので今回は空路で直接やってきた。赤い線はソウルからさらに北上しているが、我々は38度線の際まで行ってソウルに戻り、再び飛行機を使って中国のハルビンへと飛ぶ。そこからは鉄路を辿ってロシアへ向かう計画だ。

出発するまで、それなりの量の資料に目を通した。鉄道聯隊や満州に関するもの。シベリア鉄道や、抑留された捕虜の手記、近代戦争史……。あまりに範囲が広く、目についたものだけでも膨大だった。それらをひっくり返しつつ自分で複合年表も作った。しかし知りたいことは容易には埋まらない。

鉄路の果てに、何が待っているのか。
市場の喧騒の中、私は数時間前の白昼夢を振り返る。


38度線──。
ソウルから約40キロ離れた北朝鮮との国境にいた。
冬枯れの臨津江には頰をかすめる冷たい風が吹いていた。私が立っていたのは川を見下ろせる展望台だ。目前にはぐるりと北朝鮮の青い山並みが連なっている。その麓には軍事境界線があるはずだった。

臨津江には白いトラスブリッジが架かっている。京義線と呼ばれる鉄道の橋で、かつてはソウルと北朝鮮北部の都市・新義州を結んでいた路線である。

鉄橋の手前に蒸気機関車が鎮座していた。といっても真っ赤に錆びたスクラップだ。日本統治時代に作られた機関車で、朝鮮総督府鉄道のマテイ型10号というらしい。大きな動輪は割れ、ボイラーは無数の弾痕で蜂の巣のようだ。朝鮮戦争で受けた傷で満身創痍の姿なのである。

1950年12月31日、臨津江の先の長湍駅付近で客車を牽いて走っていたところ、アメリカ軍から攻撃を受けた。その日以来、京義線は38度線で切断されたままだ。

1933年(昭和8)製の〈全国鉄道地図〉というものを見れば、確かに長湍という駅があった。現在その場所は非武装地帯の一角となり廃駅となった。機関車の残骸だけが2007年に韓国側に移動され2009年より公開されているという。

今はひなびてしまったこの臨津江鉄橋を、国際列車が駆け抜けていた時代があった。

1913年(大正2)5月からのことで、京義線は朝鮮半島を経て中国、ロシアへと続く鉄路の一部になっていたのだ。欧州とアジアを結ぶことから「欧亜の鉄路」とも呼ばれ、同年6月には「東京発パリ行き」という乗車券も発売されている。

日本の鉄道省が作った宣伝ポスターがある。地球儀の周りを汽車が走っているイラストにキャッチフレーズが付いている。

一枚ノ切符デヨーロッパヘ
シベリア経由
日数約十四日

ポスターの下部には途中駅の名前がずらりと並んでいる。東京駅を出た特急列車は下関、門司へ。そこから連絡船を使って釜山へ。京城を経て中国へと入るとその先は奉天、長春、ハルビン。満州里からロシアの国境を抜け、シベリア鉄道でユーラシア大陸を延々と進み、イルクーツクを経由し、モスクワ、ベルリン、パリへと到る鉄路である。

大陸への連絡船航路は他に、敦賀からロシアの日本海側に位置するウラジオストクへと連絡するものや、中国の大連を経由するものなど、数種類が選べた。

一般人にとって海外旅行など夢のまた夢の時代だったが、50日ほどかかったヨーロッパへの客船航路に比べれば、鉄路は約2週間と早く安価だった。政財界人や官僚、文士、新聞記者などの日本人が異国へ向かい、外国人が日本を訪れた。歌人・与謝野晶子は1912年にシベリア鉄道でウラジオストクからパリへ赴いている。

だが、「欧亜の鉄路」はその後、何度も遮断されることになる。
ロシア革命、シベリア出兵、日中戦争、第二次世界大戦。沿線で起こる戦争や紛争が原因だった。

1945年(昭和20)、日本はポツダム宣言を受諾し連合国に無条件降伏する。

日本が1910(明治43)に併合・植民地としていた朝鮮半島は、北緯38度線を境にして分断された。南部はアメリカが、北部はソ連が占領する。48年に韓国(大韓民国)と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)という二つの国が建国されるが、その2年後には北朝鮮が国境を越えて韓国へ侵攻し3年に及ぶ朝鮮戦争が始まる。結果、半島の大半が戦場となってしまったのである。現在も両国は休戦状態のままだ。従って現在、日本から「シベリア鉄道の旅」に出るなら、空路や航路でウラジオストクへ渡り、ロシア内をひたすら走り抜けるルートが一般的となっている。

38度線越えの鉄路復活の話はこれまで何度も話題になった。

2000年には韓国と北朝鮮が、分断されていた線路の再連結に合意し、02年に着工。07年5月には試運転が行われ、12月には北朝鮮側の経済特区である開城工業団地への定期貨物列車の運行へとこぎ着いた。が、それもわずか1年で運行休止。以後、北朝鮮側の理由不明の翻意で復活の話は何度も潰れてきた。

韓国側は国境駅として都羅山駅も完成させている。近代的デザインの大きな駅舎には、保安検査のためのX線機器まで並んでいるのだが、そこに人影はない。

2018年には、板門店において韓国の文在寅大統領と、北朝鮮の金正恩労働党委員長との首脳会談が行われた。二人が手を取り合って国境線を跨ぐという歴史的な映像は世界を駆け巡った。一気に国交が回復されるのではないかと期待されるものの、その後大きな進展にはつながらなかった。

列車が自由に行き来できるようになるためには、休戦中の朝鮮戦争の終結が必須だろう。鉄道には経済的導線という役割があるが、軍事補給線という役割も担ってきたからだ。よって戦時には攻撃対象にもされてきたのである。


臨津江から見える北朝鮮への鉄路。
錆びた機関車の遺骸は平壌の方向を向いている。割れてしまったその動輪が、全力で回転し半島を爆進した時代は確かにあったのだ。釜山と満州を結ぶ急行列車には「ひかり」「のぞみ」という名称が付けられていた。東海道新幹線の列車名として馴染み深いが、元祖はこちらだった。

D型機関車の見上げるばかりの巨体が、汽笛を吹鳴し煙を吐きながら鉄橋を渡る姿を思った。牽かれる列車にはどんな人々が乗っていたのか。朝鮮の人々はもちろん、満州に夢を膨らませた日本人や、大陸へと送られた日本兵もいたのだろう。


市場の喧騒で現実に引き戻された。
手のひらに、小型の焼酎グラスを握っている。
とろりとしたソジュを青木センセイが注いでくれた。杯を重ねながら今回の旅を語った。

「いよいよシベリア鉄道に乗れますね。いや、これに乗れたら私はもう死んでもいいですな。車窓には雪しかないんです。ただただ雪の荒野。それがどこまでも続くんです。それだけ。もう最高」と相好を崩す。

青木俊とは、彼が「テレビ東京」で記者をしていた頃に知り合った。
以来、どれほど縄のれんを潜ったことか。

酒を飲むたび、彼は「小説を書きたい。一冊書けたら思い残すことなし」などと真顔で言い続けてきた。確かに私はかつて出版社に勤務していたことがある。しかしそれは単なる週刊誌記者としてであった。そんな男に作家になりたいと人生相談しても、まったくもって無駄である。それでも青木は真剣な顔でハイボールのグラスを握り締めては、私の顔をチラチラと見つつ、同じ念仏を繰り返すのであった。それは、私のように気の弱い人間を巻き込む作戦であったのだが、気がつけば彼は小説を世に送り出し、「先生」になることに成功していた。それだけではない。「二冊目を出したら……」と、またもハイボール念仏を繰り返して余罪を重ねていったのだった。その後もヘラヘラ笑って次作を構想中なのである。

「せっかくだから別の店にも行きましょうよ。刺身もうまいですけど、なんか温かいものも食べたいですよねー」と立ち上がり、市場の中を冷やかしながら歩く。途中で湯気が立ち上る店を指差して「アレアレ」と入り込んだ。鮟鱇鍋を見つけたらしい。いったい何語かわからないが、周りを指差して適当に注文をしている。どこでも生きていける人なのであろう。

センセイは今日の朝飯にも感動していた。小麦粉をつけて焼いた塩サバを前にしてゴロゴロと喉を鳴らし、朝からビールまで飲む始末。今は真っ赤な鍋を抱えてご機嫌はマックスだ。一夜にして韓国ファンである。

これまで何度か連れ立って取材の旅に出た。

彼の小説のための旅もあれば、私の取材を手伝ってもらったこともある。私がどう取材していいかわからないようなケース……、例えば外国大使館へ直接取材をかけることなど、彼にとっては朝飯前だった。

そして、今回の旅こそ、センセイの独断場になるはずなのだ。

センセイは以前、北京や香港で特派員として務めた経験もあるから少々中国語を操ることができる。しかも大学ではロシア語を専攻しており、旧ソ連やロシアへの旅を何度も経験しているという。おまけに以前から「冬のシベリア鉄道に乗りたい」と繰り返していたのだ。

ありがたい限りである。我々は旅の無事を祈って、グラスを鳴らした。(続きは本書にて

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著者プロフィール
1958年東京都生れ。ジャーナリスト。日本テレビ報道局記者/特別解説委員、早稲田大学ジャーナリズム大学院非常勤講師など。新聞社、出版社にカメラマンとして勤務の後、新潮社「FOCUS」編集部記者を経て日本テレビ社会部へ。雑誌記者時代から事件・事故を中心に調査報道を展開。著書に『桶川ストーカー殺人事件―遺言』(「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」「JCJ大賞」受賞)、『殺人犯はそこにいるー隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(「新潮ドキュメント賞」「日本推理作家協会賞」受賞)などがある。また、著書『「南京事件」を調査せよ』の元となるNNNドキュメント’15「南京事件―兵士たちの遺言」は「ギャラクシー賞優秀賞」「平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞」などを受賞。

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